卒業おめでとうございます。
私が10代だった頃の話をします。信じられないかもしれない話をします。だから信じなくても構いませんし、信じても構いません。私が10代だった頃、「道」という字の「しんにょう」がうまく書けずに悩んでいました。10年経った今でも「しんにょう」で悩んだあの日々はやはり無駄だったなと思います。ただし、10年経った今であれば当時よりは「道」という字をうまく書くことができると思います。ところでメルボルンの気温は29度だそうです。
20歳になったばかりの私は、国際キログラム原器に可食部がない事を知りませんでした。国際キログラム原器を知らなかっただけなので、国際キログラム原器に可食部がない事を知らなかったのは私のせいではありません。無知とは恐ろしいものです。玄関先で、あるいは電車の中で、あるいは教室や、映画館や、区役所や岐阜県の県庁所在地で、博識ぶったキャベツはラジオ体操をしながら、まるで壊れた雛人形のようにケラケラと笑っているのです。
私が初めて一人暮らしを始めた街の駅前にある商店街では、駄菓子屋の閉店を知らせるためにシャッターの上から紙が張られていました。その張り紙は全ての文字が滲んでしまっていて、そしてなぜか張り紙の右下部分が人の手でビリビリに破かれていました。このシャッターの前でこの張り紙をビリビリに破いた人がいるのだと考えてみたら、当時の私はとても幸せな気分になれました。
ところで、なぜこんな晴れているのに私は仕事をしているのでしょう。もしも狂った世界で狂いながら何者かを偏愛する行為が正しいことだとしても、私は絶対に泣いたりしません。もうすぐ時計の針は11時を指します。30分後には誰かがフォアグラ色のクレヨンで神奈川県西部を時計回りに塗りつぶし、この学校の隣街にある公園では博物館の学芸員が砂場を炭酸飲料に浸しています。そして桜が咲いて太陽が昇り、そのうち陽は沈み桜も散ります。そして12時間後にはまた時計の針が11時を指すのです。
にもかかわらず、我々はこれから粉々になります。フォアグラが充填されたこの街で、サンタクロースもパブロ・ピカソもいないこの街で、ロックンロールもポップもパンクも存在しないこの街で、我々は粉々になるのです。別に我々のプライドが粉々になるのではありません。大切にしていたマグカップが粉々になるのでもありません。私たちはただ、言わなければならないことを言いそびれ、ダイレクトメッセージの返信を後回しにして、ツイッターのタイムラインを眺め、明日仕事だからと二日酔いになる勇気はなく、夢を叶えるために布団から出て、夢を見るために布団で眠りにつくのです。ただそれだけのことです。
これから私は、私が成し遂げられなかった夢や目標を、あなたの目の前にある机に1つずつ並べていきます。並べ終わった私はやり遂げた達成感と、机の上で晒されている恥や後悔を忘れないように机の上をじっと眺めていることでしょう。私はきっと泣きそうになっていて、あなたはきっと泣きそうな私を見ていることしかできません。だからあなたはこれから何度も「あの時の私は無力だった」と自分を呪うことになります。あなたはこれから、自分を呪うことで自分の心を守っていくのです。私はきっとそんなあなたの幸せを願う事しかできません。あなたはそんな私の生き方を憐れに思うでしょうか。それとも愉快に思うでしょうか。羨ましく思うでしょうか。それとも蔑んでくれるでしょうか。あなたはそんな私を見ながら喉だけで笑ってくれますか?まるで壊れた雛人形のように。
私は今までに一度だけ、バケツに溜めた涙で雑巾を絞るように思い出を忘れ去ろうとしたことがありました。晴れた日に白い風船が飛んでいったことも、田園風景が懐かしくなって焼き立てのアスファルトの香りが嗅いだことも、それらが全て動物園で生まれ育ったライオンの仕業だとしても、その思い出が無駄だと思ったことは一度としてありません。思い出を小指一つ無駄にできるとは思えないのです。あなたはロサンゼルスの税収を5割ほど増やすためにモミの木を6分割したことがありますか。あなたがたの両隣に座っている同級生は色とりどりのコピー用紙を見てきっと思いだします。「白って200色あんねん」
言いたいことを天日干ししたくなる土曜日に海辺で違法賭博をしてはいけません。屁理屈を蒸し焼きにしても小籠包は作れません。昨日読んだ本に「ペリカン」という言葉は出てきませんでした。否定したいだけの反対意見というのは新築マンションのようなものです。エジプトの気温は今日も30度を下回りませんでした。しかしそれが一体何だというのでしょうか?だって私はタバコが吸えないのですから。
明日の自分に希望を託すのは構いませんが、今までに昨日の自分から託された希望に報いることができた日は何回あったでしょう。例えば後悔ばかりの十余年を過ごしたとして、その後悔は時間が経てば和らぐものでしょうか。変電所の客間で空調がうなり、大理石の床で万馬券がむせび泣いても、カバンから漏れた血液が大理石を汚すことはありません。仙台駅の上空からアベノカルカスが舞い降りた数時間後にはタイムライン上で「バルス」の異常繁殖が観測されます。
鶏が鳴いてから5日たった今でも地球は滅亡していません。あの日「謝罪は不要です」といった県警の担当者は確かにカメラマンから銃を突きつけられていました。
よういドンで走った100メートル走も、1つだけ足りない学校の7不思議も、あの人に告白できなかった事実でさえ、あと数年経てば思い出となり、さらに数年経てば告白できなかった事実さえ忘れてしまうでしょう。後悔は数年経っても後悔以外のものにはならず、亡くなった友人に思いを巡らせた日は死ぬのが怖くなります。あなたが幸せから遠ざかってしまうのは遠くへ行けてしまう足があるからです。しかし、だとしても足が無くなってしまえば幸せに近づくこともできなくなります。こんなことを考えながら「人生そんなもんだ」という私はあれから十余年経った今も壊れたように笑っています。
幸運なことに私の話はもうすぐ終わります。そして恐らく私とあなたが再び出会うことはないでしょう。卒業式さえ終わってしまえば、あなたの目の前には私がいない人生が待っているのです。卒業式が終わり、教室に戻り、最後のホームルームも終わってしまえば、あなたの母校になるだろうこの校舎の玄関先で冷たい風があなたの卒業証書を撫でます。校門を出たら、あなたの目の前には私が関わることの出来ないあなただけの人生が待っています。
もしかしたら、この先「消えたい」と思ってしまう夜があなたを待っているかもしれません。満月だけが光り真っ暗で憂鬱な夜も、死にたいのに生き残ってしまった朝、病室のベッドから見上げる白い天井も、数時間後か数日後か、数年後であなたのことを楽しみに待っている、かもしれません。隣人の幸せそうな生活音に自分の人生が脅かされている気になり、朝7時の青空だけが毎日を生きる理由となり、何もすることのない休日が憂鬱で、自分に「社会不適合者」のレッテルを張りながら仕事に向かう。そんな日があなたを待っているかもしれません。自分を見下してしまう自分なんていらないのに、自分を見下してしまう自分しかいない。そんな人生が、あなたと出会えることを楽しみに待っていたりするのです。
そして腹の底から「生きていてよかった」と思ってしまう夜もあなたが来るのを待っているかもしれません。うっかり生き残ったあなたが「もう少しだけ生きていたい」と願ってしまう1日が、あなたを待っているかもしれません。暖かい布団も、満月だけが輝く夜も、コンビニ帰りに信号だけが光る国道も、この先のどこかであなたが来るのを待っているかもしれません。
あなたが勇気を持って自分の人生を歩めるようになったきっかけによって、あなた自身が追い詰められることもあるでしょう。しかし、大抵のことはなんとかなります。信じられないかもしれませんが人生そんなもんです。
本日はご卒業おめでとうございます。