卒業おめでとうございます。
私はいま、卒業する皆さんに向けてはなむけの言葉を述べるために呼ばれ、そしてここに立っている訳ですが、実のところ私は「はなむけの言葉」というものがあまり好きではありません。
きっと皆さんは学生生活の中で友人やご家族、そして先生方と共にさまざまな状況に置かれ、あるいはさまざまな状況を作り出し、数々の思い出と、数々の「思い出」と呼びたくないような出来事を経て、さまざまな気持ちを抱き、そして今回の卒業式を迎えたことと思います。
「卒業式」というシステム上仕方ないことですが、このような場で話す「はなむけの言葉」というのは、個々人が抱える過去の差異を無視して「皆さんの未来は明るい」と言わなければいけません。どれだけ綺麗な言葉で原稿を着飾っても、一人一人の差異を無視して書いた言葉は誠意の抜けたものになるような気がして怖かったのです。
それでも今回、皆さんに何か言葉を投げかけようと思ったのは、先日「言葉の力」のようなものを感じる出来事があったからです。私は数か月前、仕事や生活が上手くいかずに思い悩んでいました。「追い詰められていた」と言ったほうが正確かもしれません。そんな時、たまたま友人から一本の電話が来て、他愛もない話をして、そして電話を切りました。現状は何も解決していないのに、少しだけ救われた気がしました。
私ははなむけの言葉が嫌いですが、皆さんに呪いの言葉を浴びせたい訳ではありません。「皆さんの未来は明るい」と言いたくはありませんが、未来に失望してほしい訳でもありません。私がたった数分の間にここで話すことは、皆さんが抱えていく人生の前ではほとんど無力です。しかし何も意味を為さない程に言葉が無力だとも思いません。
私なりのはなむけの言葉が、この場にいる誰か一人の人生の、どこか一瞬の出来事において、一歩前に進むきっかけの一つになったなら、僕はきっと嬉しいんじゃないか。そんな一方的な理由で私はいまここに立っています。
さて、生きているとどうしても傷ついてしまいます。信じていた人に裏切られたり、言われのない噂が原因で冷たい言葉を向けられたり、何か上手く行かないときにそんな自分が許せなかったり、盗んだバイクで走り出したり。皆さんはこれから、ほとんど例外なく他者のいる社会の中で生きていくことでしょう。そんな社会のなかでは、誰かに傷つけられることも、誰かを傷つけることも、そして自分を傷つけることも、避けようもなく降りかかってきて、どのように傷つけ、どう傷つけられるか、選択を迫ってきます。
たとえば自分が大切にしている事や、大切な人が傷つけられそうなときに、敵となった誰かを傷つけることで大切なものを守らなければいけないことが、今後、もしかしたらあるかもしれません。あなたを傷つけた誰かは、あなたが想像できない人生を送っていたりします。あなたが想像できない幸せや不幸を感じてきた誰かが、その誰かが想像できない幸せや不幸を感じてきたあなたを傷つけていたりします。
人を傷つけることが良いことだとは思いませんが、残念ながら私には、あなたの行為の善悪を判断することができません。だからこそ、誰かに傷つけられたとき、あるいはストレス発散のために誰かを傷つけなければいけないときは、相手の人生に思いを馳せてほしいのです。誰かを傷つけるときの感触は気分が悪いものです。人を傷つけなければならないときは、せめてその気持ち悪さを引き受けてほしいのです。
そしてもう一つ。できれば皆さんには幸せに生きることを諦めないでほしいです。一生懸命に生きていると、生きることに疲れてしまう時があったりします。
ですが、あなたが「死にたい」とつぶやく夜にも、きっと誰かの家に不審者が侵入しています。私の直感とは反しますが、どうやら世界は私が思っているよりも広く、想像できないような景色があるようなのです。どうやら世界では、どうしようもなく悲惨な出来事や、雑多で美しい出来事が起こっているようなのです。どうやら世界には、辛い日々から逃げ出してでも生きるにふさわしい価値があるようなのです。できたらで構いません。生きて、それまで想像もできなかった美しい景色を見てほしいです。
「はなむけ」という言葉は、旅立つ人が乗る馬を旅ゆく方角へ向けて、旅人の健康や幸せを願う古来の風習が由来だそうです。ずいぶん昔に読んだ本にそう書いてあっただけなので、本当にそんな風習があったのかも、正しい由来なのかも分かりません。ですがその本には、旅人の出発を祝うでもなく、もちろん旅人の出発を寂しがったり引き留めるでもなく、「旅人の幸せを願うため」と書いてありました。
私は皆さんの門出を祝えるような人生を送ってきませんでした。私のはなむけの言葉は旅人に手向ける祈りのようなものです。私のはなむけの言葉が皆さんにとって呪いの言葉ではないことを願っています。
本日はご卒業おめでとうございます。